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あの世はあの世で忙しい

2011年08月29日

身近な人を亡くすのは、人生で最も大きな痛手の一つでしょう。


大切な人を亡くした後、1年やそこらは落ち込んだり、悲しんだり、また「生前にもっとああすれば良かった」などの後悔は誰でも必ず伴うものですし、同時に「自分を置いて先立ってしまうなんてひどい!」などの恨みや怒りの感情が出てくるのも、また自然なものであり、そうした様々な気持ちを抑圧せずに行きつ戻りつしつつ、次第に「もうこの世にあの人がいないという現実」を、実感をもって受け止められるようになっていきます。
この一連の心理的なプロセスを、精神分析学では「喪の作業」と言います。


ところが何らかの原因で喪の作業が滞ったり、違う方向にずれていったりしてしまうと、何年経っても故人の死を認められず、病的な精神状態になってしまうことがあります。


それは様々な段階がありますが、


・いつまでも重度のうつ状態が続き、生活も困難になる
・躁状態になる(故人の死を認めるのがあまりにもつらいため、否認する心理規制です。著しい場合には、否認するために妄想や幻覚まで体験することがあります。ただし否認はあくまでも無意識レベルで起こっているため、本人としては「あの人は死んでなどいない」とその時には本当に信じています)
・うつにしろ躁にしろ、直接精神症状として体験することに耐えられず、身体症状に転換される(例 体の様々な痛み、しびれ、めまい感、胃腸症状等々)


といったものが代表的です。
こうしたものは、きちんとした心理療法を根気強く行えば、死を受け入れ、そこからようやく正常な喪の作業が開始(あるいは再開)されるのです。


喪の作業がきちんと終了すれば、心も落ち着き、日常生活もまた普段通りに行うことができます。
ただ、通常の心理学では、それ以上の広範囲な人生上の疑問、すなわち「死んだらどうなるのか?」「あの人は死後どこでどうしているのか?」「私は何のためにこの世に生まれてきたのか?」といったものには、答えてくれません。


「人生は一度きり。死んだら全て無に帰すからこそ、今自分にできることを精いっぱい日々行なって、生涯を終えれば良いのだ」と思える人はもちろん、それで結構。
しかしかなりの割合の人は、それでは「生きる意味」や「死への不安」への対処の仕方がわからないと感じているのではないでしょうか?


そうした疑問に一つの答えを提供してくれるのが、スピリチュアリズムであり、その代表が「輪廻転生」の考え方です。
霊能者のリーディングや、催眠療法の場面、あるいは前世を記憶するという幼児らの記録などで、そうした死生観に注目する人が増えてきています。
もちろん死後があるのか、転生するのかは、誰にも証明はできませんが、そうした世界観を採用することで、自分が人生でより楽しく、安定した気持ちで過ごせるなら、メリットがあるといえるでしょう。


で、輪廻転生説では、人は自分の魂を鍛錬し成長・向上するための道場としてこの世に生まれ、死とは道場を「卒業」するイベント。
死後は肉体を脱ぎ捨てて、魂の本来の故郷=あの世に戻り、そこでホッとしながらまた楽しく過ごすので、この世に残された者たちがいつまでも嘆き悲しむのを見るのは、気が重いとのことです。


多くの事例が、スピリチュアル系の本、例えば飯田文彦氏の『生きがいの創造』などの著書やマンガ「ヒプノトラベル」などに記述されています。
それによると魂は、この世で肉体という鎧に閉じ込められ、心理的にもより制限された視野しかない不自由な生活をせねばならない数十年間の人生よりも、「故郷」に戻った方が本来の広い視野、制限されない意識レベルを保てるので楽であり、あまりこの世的こまごまとしたことにいつまでも関わるのはおっくうだそうです。


例えば皆さんが高校を卒業して大学、あるいは社会に出た時のことを思い出してください。
卒業する時、これまで慣れ親しんだ場所や対人関係から離れ、新たな世界に旅立つのは一抹の不安や寂しさもあるでしょうが、新生活への期待感もまた、大きなものでしょう。
そういう時に、在校生から何度も呼び出されて日々のあれこれの話し相手をさせられるのは、だんだんと気が重くなるのではないでしょうか。
「こっちも新生活でいろいろと忙しいんだから、そろそろ遠慮してくれないかなあ」という気持ちになったとしても、不思議ではありません。
実際、輪廻転生関係の本を読むと、家族などがあまりいつまでも故人を呼び続けると、故人が成仏しにくくなる、と書いてあったりします。


2007年ごろ、「千の風になって」という歌が、大ヒットしました。
「私の墓の前で泣かないでください、私はそこにいません、千の風になってあなたの(あるいは皆の)そばにいますから」といった趣旨の歌でしたが、スピリチュアルな死生観は、ああいった感じです。


故人が先だった世界へ、いずれは自分も旅立つ。
そして一服したら、また(自己鍛錬のために)この世に修行に降りてくる。
そうした死生観を持っていると、日常のストレスフルな出来事も「今回の人生の課題の一つ」と思いやすいし、自分の死が近づいてきても、過剰に恐れる可能性が抑えられるのではないでしょうか。


もちろん、最終的にどのような世界観・人生観を選ぶかは個人の自由ですが、よりメリットが実感できるものを採用するのがお得で実用的、といえるでしょう。

書いた人 浜野ゆり : 2011年08月29日 07:16