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おばあちゃん

2005年07月02日

 病室への廊下を点滴台を引いて歩きながら、気が重かった。
 その日もCさんの点滴の日だった。Cさんは70歳の女性で、原因不明の高熱の検査のため入院した患者さんである。諸検査の結果、心臓に細菌が取り付いていることがわかり、毎日抗生物質の点滴治療が必要ということになった。当時研修医1年目の私は、主治医の1人として点滴をしに行く担当であった。ところがこの薬は、大量にしかも長期に使用すると血管が炎症を起こし硬くなり、次第に点滴針が刺入しにくくなる。最初の頃は難なく点滴をできたのに、ここ数日はいつも1度で入れられず、苦労していた。Cさんも何度も刺されて痛いだろうなと思うと、何だか自分が加害者のように感じられ、点滴の時間が近づくとちょっと憂うつになった。
 私が勤務していた大学病院は関東の地方都市にあり、都心からの患者も来る一方で、ローカル線で入った丘陵地帯からはるばる通って来る人達もいる。Cさんはそうした山里の農家の奥さんだった。
 大部屋に入ると、隅のベッド上でCさんが週刊誌を広げ、正座を崩した「おばあちゃん座り」をして眺めていた。ぽつんと1人でそうしている姿がひどく所在なげに見え、私は少し心が痛んだ。季節は初夏、農繁期のはずだ。家族も非常に多忙らしく、見舞いにもあまり頻繁には来られない様子だった。そういうときに病気して入院してしまったCさんは、どんなことを感じているのだろうか。
 そんなことを頭の片隅で考えながらも、いつものように淡々と作業に取りかかる。これまで繰り返してきた針刺しで、Cさんの腕は血管に沿ってあちこち内出血して青くなっている。やはり難航し、何十分もかかってしまった。Cさんは「苦行」に顔をしかめた。
 ともあれ、この治療の成果が上がり、数ヶ月後にCさんは退院した。私は研修の交代時期のため彼女の退院を見届けることはできなかったが、その更に数週間後、心機能検査室の前を通りかかったとき、偶然聞こえてきた「Cです」という声に足を止めた。見ると、受付窓口にCさんが受診票を出しているところだった。どうやら退院後の経過観察のために再診したらしい。私は無性に懐かしくなり、一言声をかけ現状を聞きたかったが、あいにく非常に急いでいたため叶わなかった。
 あの後、Cさんは元気で過ごしているだろうか。

 研修医2年目、精神科に移り外来陪席していたとき、80近い老女、Dさんが娘に連れられて受診した。娘さんは、Dさんが最近忘れっぽいようなので、ぼけではないかと心配して連れて来たという。早速知能検査をすると明らかな記憶力の低下があり、痴呆が始まっていると判断された。指導医が娘さんにその診断を伝え、気休めながら脳循環改善薬を処方後、2人は帰って行った。
 知能検査中、質問するとDさんは「あら、えっと・・・さっきまでは覚えていたんですけどね。おほほ」とにこやかに笑っていた。それをいぶかしく思い、本人達が帰った後指導医に聞くと、「戸惑いを隠そうとしていたのでしょう」との説明を受けた。なるほど、急に病院に連れて来られ、その上簡単な質問にも答えられない。はっきりはわからなくても、自分がどこか「壊れている」と感じ、不安だったのだろう。
 仕事柄痴呆老人を外来で診察することが多いが、寿命の差か、圧倒的におばあちゃんに接する機会が多い。娘や息子に連れて来られ、戸惑っている。外来で我々ができることは知能や意識状態の診察と、痴呆という結果が出た場合は家族への援助――家での接し方や社会的サービスの利用法を教える――くらいである。本人に対しては多くは語らない。というか私の場合、語れない。「あなたは痴呆症です」ということに、どれだけ意味があるというのだろう。それより、「誰でも年を取れば多少忘れっぽくなるのですから・・・大丈夫ですよ」とおばあちゃんの両手を自分のそれで握っていうことにしている。客観的にみれば決して「大丈夫」ではない状態なのだが、相手に「よくわからないが、とりあえずすぐ痛いことや怖いことをするわけではないらしい」と感じてもらえれば良い、と思って、いつしかそういう習慣がついた。

 それにしても、同じ老人でもおじいちゃんよりもおばあちゃんにこうして感情移入してしまうのは何故だろう。「それは浜野さんがおばあちゃん子だったからでは」と、私を学生時代から知るサイコセラピストはいう。確かに、両親共働きだったため、子供時代は祖父母にずいぶん面倒をみてもらった。祖父は孫である弟と私をスポイルしがちであったが、祖母には厳しく躾られた。同時に料理を教えてもらったり、あるいは放課後校庭で習い事のことも忘れて遊び呆けていると、習字道具を持って迎えに来たりした。また、帰宅後宿題をしていると、夕食の買い物から帰った祖母がいつも菓子パンをそっと机に置いて行った。「1個だけだよ。それ以上食べたら御飯が入らなくなるから」。
 高校を卒業後上京し、以後たまに帰省することがあっても主に話すのは母親とであった。電話でもそうである。この十数年、家族との交流の窓口はたいてい母であった。だがそれでも、自分の意識もしないところで祖母の影が確実に私の中に息づいているのだなあ、と社会に出てから気づいたのであった。

書いた人 浜野ゆり : 2005年07月02日 18:48

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