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新しい世代

2005年07月03日

 今日夕食に入ったお店で、隣のテーブルに20歳そこそこの女性3人組がいた。そのうちの1人が曰く、「自分にはボキャブラリーがないから、人と話していて自分の気持ちを上手く伝えられない。本を読まないからだと思う。私、本もマンガも読まないから・・・。これではいけないと思って、時々本を買ってきて読もうとするのだけど、なかなか頭に入らなくて、理解するのに時間がかかるので疲れちゃって、いつも途中で終わってしまう」。
 これを聞いて、以前「占いライター養成講座」を受けた時の、講師の言葉を思い出した。「最近の若い人たちは本はおろか、マンガさえも読まない。せいぜいインターネットの、画像だらけのページを眺めるだけ。だから雑誌の占い記事も、できるだけ短く、簡単で、漢字の少ない文にしなければ読んでもらえない」。その実例がこの人達か、と思った。
 人は「言葉」を使って考え、感じる存在である。言葉をまともに持たない人間の精神内界は、語彙が少なければ少ないほど、動物のそれに近づく。動物が極端と思われるならば、まだ言葉を覚える前の乳幼児レベル、と思っていただければ良い。乳幼児は自分の不快、不安などを「声」や「動作」でしか表現できず、周りの親などがそれを適切に察して、彼の不満を解消してあげないと、ますます泣いたり、ひっくり返ってじたばたしたりする。
 語彙の乏しい人間もこれに近い状態になる。「言葉」を充分に使えない人が困るのはまず、身近な人に自分の意思や気持ちを適切に伝えられないために、コミュニケーションが上手く成立しないこと。このために感情が爆発し、いきなり暴力などの身体行為になりかねない。
 自分自身とのコミュニケーションもまた、言葉を使って行なわれている。自分の考えや、感情状態を言葉で整理できないため、自分の中で何が起こっているかわからず、不安やイライラが高じるとそれを心のなかで対処できず、リストカットや過食嘔吐といった、自己破壊的な行為を繰り返して発散しようとする。このため、1980年代後半以降、特に若い世代に対して、オーソドックスな形での精神療法が非常に行ないにくくなってきた、と精神・心理職にある人達の間でいわれるようになってきている。精神療法の中で必然的に体験するフラストレーションや不安を、次回のセッションまで自分の心の中で保持し、あれこれ考えてみるということができず、すぐに自傷行為や他人とのトラブルといった「行動化」に走ってしまうからである。
 また、上記の女性は「マンガが読めないのは、まずコマ割りがわからないから。このコマの次はどこを読めばいいのかとかが」という。確かに、日本のマンガは独自の文化になっていて、歴史的に見ると、映画の手法(視点のクローズ・アップ、パン等々)を取り入れてきており、非常にアクティブなものである。これはマンガを読む人ならわかると思うが、上手に作られたマンガは、その作品世界に入り込むと、視線がコマ割り通りに導かれるが、散漫な態度で片手間に読もうとすると、時々見る順番を間違える。この女性はつまり、作品世界に入り込めるほどの集中ができないのではないか。
 するともう1人の女性が、「本を読もうと思っても、それに集中できない。通勤とかの電車で、暇じゃん、それで本を広げるんだけど、周りの人達のことが気になって集中できなんだよね」という。ひととき、自分の内面に引きこもって思索する――これも人の、己を保つ大事な精神機能だが、これができないとすると、かなり機能が低下しているといわざるを得ない。
 だがここで、「だから近頃の若者は・・・」などとというつもりはない。そんな台詞はもう何百年も昔から言われ続け、しかしこうして現代社会があるのだ。確かに「言葉」つまり左脳を使った精神機能は退化しているようだから、それを使った従来のやり方は廃れていくかもしれない。だが、セラピーを例に取ると、ボディ・ワークやマッサージなど身体へ直接働きかけるものや、ヒプノセラピー、絵画療法などビジュアルをメインに使ったものなどが、今後はよりスムースに受け入れられていくのかもしれない。人間関係なども、より直感的、即物的になるかもしれない。それが退化なのか進化なのかはまだわからないが、今後そういう方向性で進んでいくのはおそらく避けられないのではないかと私は考えている。
(2004年2月)

書いた人 浜野ゆり : 2005年07月03日 10:16

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