« 妄想としての「危険な情事」 | トップページへ | アルカリイオン水 »

父と息子

2005年07月06日

 先日、映画「シャイン」を観た。これは、音楽の天才的な才能を持ちながら統合失調症を発病し、長年入院しながらも、やがてサポーターを得て奇跡的に音楽界に復帰するという話で、オーストラリアの実在のピアニスト、デビッド・ヘルフゴットをモデルにしている。ちなみに今年(2004年)初頭のNHKテレビ「クローズアップ現代」でも彼の特集をしていたが、映画の主人公役の俳優は、本物そっくりな外見である。
 この映画については、そのストーリーは以前から知っていたが、全編じっくり観たのは今回初めてである。主人公がピアニストということで、当然音楽の話題やピアノを弾くシーンが延々と出てきたりするのだが、音楽に無知な私が観ても全く退屈せず、1時間45分があっという間に経ったのだった。
 これは精神分析的に観ても非常に興味深いストーリーである。主人公の父は暴君的で、主人公のピアノの才能を開発するが、息子を自分の所有物として扱い、デビッドがその才能により世界的に有名な音楽学校への留学に招かれても「お前はこの家族を破壊するのか!」と責め、手元から息子が独立するのを許そうとしない。
 巧妙でありやっかいなのは、父は息子が少しでも反抗したり自立の動きがあるとこてんぱんにやっつける(実際に連打する)と同時に、直後には息子を抱きしめ「私を憎むな。お前をこの父ほど愛する者は他にいない。他人は皆敵だ、世の中は弱肉強食の世界なのだ」とささやき、こんなに酷い仕打ちを受けるのも愛情からなのだとか、父を憎むのは罪悪なのだとかいう考えを、幼い息子に刷り込む点である。
 これは精神分析的にみれば、強い父に徹底的に去勢された息子の話である。去勢というのはむろん狭義の性的な意味ではなく、「男性としての自分を正当に評価し、過剰な不安や恐れなく、自信を持って人生を歩んでいく力、生きるバイタリティそのもの、をそがれた」ということである。
 この呪いのごとき愛にもがき、身動きの取れなくなったデビッドは、精神を病んでいき、ある日とうとう、精神病院に搬送される。心のエネルギーを父に吸い取られた息子は、発病・入院という形でしか、強大な父から離れ得なかったのである。
 実はこの父親自身も、自らの音楽の才能を父に砕かれ、しかもその父はユダヤ人であるということでガス室で殺されているため、主人公の父は「自分の父親との心理的対決」即ちエディプス葛藤を解決できておらず、それを自分の息子との関係に繰り返しているのである。
 映画の終盤近くで、音楽界に復帰したデビッドに父が会いにくるシーンがある。父は相変わらず息子を自分流に従わせようとするが、最後の最後でデビッドは、かろうじて父に「そんなことは知らない」と言い返し、ここで父は踵を返して息子の前から去る。デビッドも帰っていく父を窓から見送りながら「さよなら、父さん・・・」とつぶやく。この時点でようやく息子が父から独立できたことを示す場面である。


 臨床をしていると、時に「そんな馬鹿な」といいたくなるような親子・夫婦関係を見聞する。家庭は一種の「治外法権」なので、その内実は外部からはうかがい知れない部分がある。その隔絶された世界での「家族法」における最も立場の弱い者が調子を崩し、助けを求めて来たときになって初めて、外の風が入ることになる。
 独自の「家族法」に基づき強固な世界を作り上げている家族ほど、外部の介入に抵抗するが、このプロセスを通して家族全体が、それが無理でも少なくとも患者が、自分や世界を見る目を変え、もっと自由度の高い、そして自己と他者を同時に受容できる生き方を身につけていってくれたらと思う。
 親子も夫婦も決して一心同体ではなく、別個の人格であることを前提に、そしてだからこそ「他人」として尊重し、意識的に互いをわかろうと努力する必要があるということを理解した上で、こんなにも濃い、家族という関係でこの人達と生まれついた意味を考えると、これまでとは違う感覚を得られるのではないかと思う。
(2004年)

書いた人 浜野ゆり : 2005年07月06日 17:15

この記事へのコメント