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人生宗教

2005年07月03日

 人間には人種、国家をはじめ、様々な文化があり、1人1人についてもそれぞれの個性がある――というのは頭ではとっくにわかっていても、感覚面で心から納得できるようになるには経験が必要だ。
 人種のるつぼといわれるアメリカでは、そもそも「他国からの異なった民族の集まりである」という創立の経緯が前提にあるために、常に「個性」を生かした教育が行なわれる。といっても最初からそんなにご立派な哲学があってではなく、常にマイノリティーであるヒスパニックや黒人、ネイティブ・インディアンといった民族と白人との葛藤が続いてきた結果、そうせざるを得ないのだ。同じように教育しようとしたところで前提となる文化や知識、体力能力が全く違うので、一律には無理。それなら各自に最も適したようにそれを取り入れ、その人がサバイバルできるようにすべし、という生き残り術の結果といえるだろう。
 日本のように長い期間単一民族の中に温存された文化を持つ国では、少しでも違う空気を持つものは怪しまれ、排除しようとする圧力がかかる。多くの帰国子女が外国に行った先でよりも、日本に帰って来てからのほうがカルチャーショックを受けて不自由を感じるのも、こうした土壌による。
 しかしそれも、ここ10年ほどで徐々に変わりつつある。世界全体を巻き込む人と物、情報、文化の流れに、日本も突入しつつある。
「価値観の違い」を歴然と示してくれるものは幾種類もあるが、占いもその1つである。特に「命術」といわれる、生年月日時を元に割り出すもの。西洋占星術や四柱推命などがその代表である。
 ホロスコープなり命式を観ると、自分と全く違う人がいること、いかに自分とかけ離れているかを知ることになり、感慨深い。「これじゃあ、あの人と自分が物事の感じ方が違うのも無理ないわ」、と思えるのである。
 現在私が関わっている絵画療法の一種「ライフシール」では、題材が絵である故に、より一層あからさまにその差異が際立つ。同じテーマで描いた1枚の絵でも、驚くほどの発想の違い、構図や色使いの相違が出る。絵はより直に描き手の内面を表すから、その作品の違いは各人の精神内界の違いそのものである。
 だがそれにしても、自分の最も気が合う、同じ価値観を共有すると思っていた人(達)と自分の間に越えられない溝があることに気づく瞬間は衝撃的である。その当人が自分にとって殊のほか大切な人の場合は尚更だ。双方の言い分のどちらが正しくてどちらが間違っているともいえず、ただ各自の価値観の違いであるとしかいいようがない・・・。それまで「彼(彼女)こそ、自分の1番の理解者」だと思っていたのに、どうしても分かり合えない一線があると認めなくてはならないのは、何と淋しいことだろう。
 その人の持つ価値観、世界観、人生観はある意味、人生における個人的宗教といえるかもしれない。それを絶対的に保証する客観的なものはないのだけど(当人は自明の真理と思っているが)、間違いでもなく、それがその人の生きるよすがとなっている。
 こうなるともう「宗派の違い」なのだから仕方ない、と諦めざるを得ない。それでも既に運命共同体になっていたり(家族など)、離れようと思えば離れられるが「宗派」部分以外の人格面ではやはり相手に惹かれていて、つきあいを続けたいと思うならば、触らぬ神にたたり無しで、その話題を避けてつきあうしかない。
 人が孤独を感じる瞬間の1つが、こういった場面であろう。「自分以外の人間」を最終的な頼りにしていると、こういう時に相当動揺することになる。「自分自身への信頼感」そして「人間を超えたものへのつながり」の両方を感じていられる人は、こういうときに強い。
(2003年)

書いた人 浜野ゆり : 2005年07月03日 10:03

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